自分自身をケアすること*
先日頂いたコーヒー。ちょこっとつけてくれたお菓子との時間に、心を休ませることが
できました。
そういう時間って、なかなか取れないけど、ありがたいし、
毎日を生きていくのに、心の向きを変えるのを手伝ってくれるように思います。
先日から香さんのワークショップなどのお知らせ文を読みながら、
「ほんとに。ケアする人へののサポートが足りていない」と実体験から思いました。
わたしが今すぐに何ができるということでもないかもしれませんが、
わたしの体験として、その時々で思ったこと、感じたこと、を書いておこうと思います。
長くなりそうですし、面白い♪という話でもないので、興味のない方は、ここまでで*
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夏が始まるころ、和歌山のわたしの母が亡くなりました。
2年ほどまえに、骨折して入院したのをきっかけに、様々な症状がでてきて、
介護関係の方々のサポートを受けながら、母は、母のこの世界での役目を終えました。
今は、色々法事関係も終わって、ひと段落という時です。
介護に関わる手続きのことや、色々なことはここでは省きますが、何か情報が知りたい方は、わたしが知る範囲で情報をシェアできるので聞いてくださいね。
人はそれぞれの過ごしている環境や、元々の心の傾向などもあるので、
こういう体験への思いは人それぞれだと思います。
「わたしの場合は」で書いていることご了承くださいね。
父と母はふたり暮らし。
父も母のケアをしながら、家事をしたりもできないので、うちの場合は、ケアマネージャーさんにお願いして、色々な介護関係のサポートを受けることにしました。
わたしが住んでいる場所と和歌山は近いようで、離れているので、毎日実家に帰って手伝いをするということはできませんでしたし、仕事もあるし、家族もあるしで、即効手続きをしていきました。
これは以前から、母が「もしもそうなったときにはそうして欲しい」と、私に話していたということもあります。
こんな風に、スムーズに手続きは進んでいったので、はたから見たら楽をしているように見えたかもしれません。
「楽をしているように・・・」と書いていますが、
本当に本当にたくさんの方のサポートを頂いて感謝しかない!という気持ちを持ちつつ、それ以降は、
「わたしはやるべきことをしていないのではないか」という超大型の罪悪感を自分を抱えることになります。
ヘルパーさんにお会いしても、時々様子を見に来てくれる親戚に会っても、
「親の世話をせず楽して、自分のしたいことして、仕事もやめず、実家に一緒に住むこともせず。。。」
と思われているだろうな、そりゃそうだよな。。と自分で自分の心をドスドスと殴っているように思います。
そして週1~2回くらいのペースで実家に行って、買い物をしたり、父と母それぞれの話し相手や気晴らしをしたりしながらも、
日々は離れて暮らしているので、自宅にいても
「何も起きてないかな」「ケンカしてないかな」「これからどうしていったらいいかな」と
常に心の中に心配ごとはつきませんでした。
そんな風に
・罪悪感を持っている。
・自分だけ楽しいことをしてはいけないんじゃないか。
・遊びに行くということができない、したとしても言えない。
・心が完全に休まるときがない。
という思いをされた方も、家族の看病や介護をされている方の中にはおられるのではないでしょうか。
一緒に住んでいる父も、同じように常に気を張っていたと思います。
時々、母がデイサービスに行っているときなどが安心して出かけられる時だったと思います。
父は「家の電話が鳴ると、何かあったんじゃないかと思ってドキっとする」といつも言っていました。
父も、母にやってあげたいという気持ちと、自分自身の体力や体調への不安や心配と、
思ったように動けない母への苛立ちとで、色々な感情を持ち続けた2年間だったと思います。
子供であるわたしには話せないことを、ケアマネージャーさんに聞いてもらっていたようです。
母がお世話になっていた介護施設にも、様子を見に行ったことが何度とあるのですが、
看護や介護のお仕事は、体力も使うし、怪我をしないようにと気も張るお仕事で、人手も足りていないようで、疲労が蓄積されているんだろうなと毎回感じていました。
こんな約2年間を過ごして、
こういう感情の蓄積は、人の心を弱らせていくには十分で、
この約2年間の間に、「わたしは良くない黒いエネルギーを撒き散らしているに違いないっ!」と何度も思い、
こんな状態で人に会える顔ではないはず!と思ったりしていました。
これが行き過ぎると、介護うつになっていくんだろうなぁと客観的に思っていました。
そうなのです。自分のことなんだけど、客観的に見るということをできたので、
介護される人へのケアは昔に比べて充実してきているけど、
・家族へのケアはほぼない
・看護や介護に携われる仕事をされている方へのケアもない
・そんな時間もなかなかとれないし、取っていいよという雰囲気もない
ということをずっと感じてきていました。
わたしは家族としての関わりだったのですが、
こういう期間が長くなるほど、
肉体的・精神的疲労が増すこと、
優しさがどんどん消えていって、怒りや、さらに進んで憎しみが家族に、自分自身に向けてしまう可能性があること、
自分の土台を「幸せであってはならない」に知らず知らずに置いてしまうこと、
が起きてくるなぁと実感しました。
すごい体験です。
そんなときに、わたしが助けられたことは、(離れて住んでいたからということもありますが)
自分のことをケアする時間を持てたこと
でした。
自分でヨガの練習することもだし、
仕事としてヨガをすることもだし、
ちょうどその時に、香さんのワークショップに行ける機会があって、お話しを聞いたり、ヨガのことやアーユルヴェーダのことを学ぶことができて、
「黒いエネルギー放ってる~」とか、「家族のことが気がかり」とか、いろいろな感情や、背負っている役割や、
肩書きを、いったん下ろせる場所と時間があるということが、
なによりの助けになりました。
わたしが自分をケアしていくこと、疲れをほどいていくこと、いい具合になっていることは、
わたし自身にも、父にも母にとっても、やさしい愛ある選択をしていけることだ。
とおなかの深いところで思ったのでした。
ヨガ以外にも、話をできる場所や、マッサージを受けること、
サービスを受けることに罪悪感持たずにすむような社会の雰囲気も、助けになるのではないかと思います。
母を見送るときにも、父とわたしで、それぞれが健やかに生きていくこと(それは母にとってもきっと安心できることで)を選んでいけたように思います。
こういう体験があって、わたしができること、ヨガをする場や時間では、
いろんな背負っているものを下ろせる場と時間を作りたいと思っています。
そして、どうにかケアをする側の方へのことができないかなとも思っています。
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