愛とかあれこれについて、ふと気づいたこと○
たいへんな大雨です。みなさま安全に、安全にお過ごしください。
今日はヨガミトラのクラスの日だったのですが、代表のなおさんから「交通機関が不安定だし、
自然の流れに寄り添って今日はおやすみにしましょう」とご連絡いただきました。
最寄り駅からの電車が運休していたので、自然に沿っていくと、こんな風に助けて頂けるのだなぁと。
朝からゆっくりごろごろ上等!な気持ちで過ごしています。
*
先日、あるところでのおはなしで(どこでのお話しかは詳細書きませんので、興味ある方は会ったときに聞いてくださいね)、
「気をつかわずに、愛を使う」
という言葉がおおっ☆と響きました。
気をつかうと、どんどん自分の中から「気」をなくしていくそうなのですが、
愛は使っても使っても減らないし、使った分だけ自分自身もその愛で満たされていくそうです。
(ちょっとニュアンスだけど、こう受け取りました)
そういえば。。。と思い返して、わたしは何かをするときに、気をつかってやっていること
多かったかもしれない。。。
愛も自然治癒力もわたしたちからあふれ出ているのだなと思ったら、うれしくて小鼻ひゅんと高くなりそうです。
*
その話しの続きで、赤ちゃんや犬、猫のおはなしもあって、
その存在ちゃんたちは、愛だけをひたすら送り続けてくれているそうなのです。
だから、わたしたちも心配とか、(もう触れることができなくなっていたら)さみしいとか悲しいという
気持ちはもちろんゼロにはならないけれど、愛を送り続ければよいそうです。
その話しを聞いて、先代犬のだんごがいなくなって2年、ちくわがやってきて1年ちかく
ずっとわたしが自分自身の中で消化できないというか、謎の罪悪感を持っていたことが
ほどけて行くように思いました。
先代のだんごのことは、今もとてもとても大切で。
ちくわのことも、それはそれはかわいくて。
だけどわたしはこんな風にずっと思っていたのです。
わたしの愛情は100くらいの有限だから、だんごとちくわで、どちらかが多くてどちらかが少ない
という不平等がおきてるのではないかなって。
だんごのことを大切だと思うことは、ちくわに100%の愛情を注げていないじゃないか。
ちくわのことを可愛がるのは、だんごのことを忘れているようで申し訳ないんじゃないか。
こんな面倒なことを考えるのわたしだけかもしれないけれど(笑)
そっかぁ。わたしの愛は無限なのだから、だんごにも無限の愛を、ちくわにも無限の愛を
ひたすら送り続けたらいいんやわぁです☆
それは自分自身へも同じことで、自分自身にも無限の愛を送り続けること、これしかできないのかも
しれないです。
「愛」という言葉。口にすると、ちょっと歯が浮いちゃうような気持ちになりますが、
わたしも、すべてのいのちの根源もこれなのだとしたら、歯が浮いちゃっても言い続け、
大事にし続けていくしかないなと思っているところです。
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